乗用車FCVの足踏みが意味するもの

水素で走る車といえば、多くの方がトヨタMIRAIのような燃料電池乗用車(FCV)を思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、その乗用車FCVの世界販売は年間1万台強にとどまり、年間1,000万台規模へ拡大した電気自動車(BEV)との差は歴然としています。水素ステーションの少なさ、車両価格、燃料コストという三つの制約が重なり、乗用車市場での水素の劣勢は当面覆りそうにありません。

興味深いのは、当のトヨタが乗用車FCVの拡販に固執していないことです。同社は燃料電池と並行して、水素を直接燃やす水素エンジン車をレース活動で鍛え続け、水素技術の適用範囲を「乗用車の販売台数」ではなく「パワートレインの選択肢の広さ」で捉え直しています。乗用車は水素技術を磨く場であり、収益化の主戦場は別にあるという整理は、業界全体の戦略転換を先取りしたものといえます。

ところが、これをもって「水素モビリティは終わった」と結論づけるのは早計です。業界の投資と開発の重心は、乗用車から大型トラック・バス・船舶・鉄道・産業車両へと明確に移っており、そこでは水素の特性である短時間充填・長距離走行・重量物への強さが、バッテリーに対する優位性として生きてきます。つまり市場が消えたのではなく、主戦場が移動したのです。本稿では、乗用車以外で進む水素モビリティの現在地を整理します。

大型トラック 量産前夜の本命市場

水素モビリティの本命と目されるのが大型トラックです。長距離を走る大型車をバッテリーで電動化しようとすると、電池の重量が積載量を圧迫し、充電にも長時間を要します。稼働率が命の物流事業では、数分から十数分で充填でき、航続距離800km級を狙える燃料電池の価値が相対的に高まります。

国内では、いすゞ自動車とホンダが共同開発した燃料電池大型トラック「GIGA FUEL CELL」が物流事業者と連携した公道実証を拡大しており、2027年度の量産開始を目標に掲げています。トヨタと日野自動車も大型FCトラックの実証を重ねており、トヨタが2025年2月に発表した第3世代燃料電池システムは、ディーゼルエンジン並みの耐久性と大幅なコスト低減をうたい、2026年以降に商用車向けへ本格投入される計画です。海外に目を向けると、中国が政策支援を背景に燃料電池トラック・バスを累計2万台超へ積み上げて世界最大の保有国となり、米国ではカリフォルニア州の港湾コンテナ輸送でFCトラックの商用運行が続いています。

欧州でも大型トラックの水素化は本格化しています。ダイムラー・トラックは液体水素を燃料とする大型FCトラック「GenH2」の顧客実証を重ね、ボルボ・グループも燃料電池と水素エンジンの両にらみで開発を進めています。背景にあるのは、EUの大型車CO2規制が2030年に向けて段階的に強化され、トラックメーカーがゼロエミッション車の販売を事実上義務づけられていることです。規制が需要をつくるという構図は、ここでも共通しています。

商用車シフトには、インフラ側の合理性もあります。決まったルートを走るトラックやバスは、車庫・物流センター・港湾に大容量ステーションを1カ所置けば運用できるため、乗用車のような全国網の整備を待つ必要がありません。需要が事前に計算できる「フリート起点」のモデルは、水素ステーション事業の採算問題への現実的な回答にもなっています。詳しくは水素ステーションとモビリティのレポートもご覧ください。

海へ、レールへ 船舶と鉄道の水素化

海の水素化も静かに進んでいます。象徴的な存在が、2025年の大阪・関西万博で会場アクセスの旅客輸送を担った水素燃料電池船「まほろば」です。岩谷産業などが開発した国内初の商用運航型の燃料電池船で、都市部の水上交通における水素利用の実例をつくりました。外航海運では、アンモニアやメタノールを燃料とする大型船の発注が相次いでおり、燃料の製造元をたどれば水素サプライチェーンに行き着きます。国際海事機関(IMO)の脱炭素規制が強まるなか、海運は将来の水素・アンモニア需要の巨大な受け皿と位置づけられています。

鉄道では、JR東日本がトヨタ・日立と開発した水素ハイブリッド電車「HYBARI(FV-E991系)」が2022年から実証走行を続けており、2030年頃の営業運転を視野に入れています。ディーゼル車両が残る非電化路線を、架線設備の投資なしに脱炭素化できる点が水素車両の強みで、ドイツでは燃料電池列車の営業運転がすでに始まっています。このほか、港湾のフォークリフトやコンテナ搬送機器、空港の特殊車両、建設機械といった産業車両でも燃料電池化・水素エンジン化の開発が進んでおり、「決まった拠点で毎日大量に使う」用途ほど水素と相性が良いという共通パターンが見えてきます。

実は、燃料電池モビリティで最も商業的に成功しているのはフォークリフトです。米国では倉庫・物流センターで数万台規模の燃料電池フォークリフトが稼働しており、屋内で排ガスを出さず、バッテリー交換の手間なく数分で充填できる利点が、24時間稼働の物流現場で評価されています。日本でもトヨタ系を中心に導入が進んでおり、「地味だが確実に儲かる水素モビリティ」の代表例として、商用車市場の先行指標と見なされています。

ビジネスとしての読み筋

乗用車以外の水素モビリティに共通するのは、燃料の購入者が個人ではなく事業者だということです。事業者は燃料費の総額と安定性で判断するため、水素価格が既存燃料に近づけば導入は一気に進み、逆に価格が高止まりすれば普及は止まります。つまり商用モビリティの成否は、車両技術よりも水素の供給価格に律速されるのが実態です。値差支援をはじめとする制度が燃料価格をどこまで引き下げられるかが、この市場の最大の変数といえます。

時間軸の目安も添えておきます。2026〜2027年は第3世代燃料電池システムの商用車搭載とFCトラック量産立ち上げの初期検証期、2028〜2030年は量産効果と水素価格低減がかみ合うかどうかの分岐点、2030年代前半は船舶・鉄道の営業運行が広がる本格展開期という見立てが業界の共通認識に近いところです。導入を検討する物流・運輸事業者にとっては、車両価格だけでなく燃料込みの総保有コスト(TCO)がディーゼル比でいつ逆転するかが、実務上の判断基準になります。

事業機会の裾野は広く、車両メーカーだけのものではありません。車載用の高圧水素タンク(炭素繊維複合容器)、大容量充填に対応するステーション機器、フリート運用を最適化する燃料管理システム、燃料電池の保守・整備人材の育成など、周辺産業の需要が量産開始とともに立ち上がります。乗用車の販売台数だけを見て水素モビリティを判断すると、この構造変化を見誤ります。追うべき指標は、FCトラックの量産計画、フリート向けステーションの整備件数、そして商用車1kmあたりの燃料コストの推移です。当サイトでは今後もこの視点で業界の動きを報告していきます。