水素エネルギーは「未来の燃料」と呼ばれ続けてきましたが、2020年代半ばに入り、その位置づけは大きく変わりました。日本では水素社会推進法の下で支援制度が動き出し、世界では大型プロジェクトの選別が進んでいます。本ページでは、水素サプライチェーン産業を理解するための出発点として、世界と日本の需要構造、水素の分類、政策の枠組みという全体像を報告します。
世界の水素需要9,700万トンの実像
国際エネルギー機関(IEA)の推計によると、世界の水素需要はすでに年間約9,700万トンに達しています。意外に思われるかもしれませんが、水素は決して「これから使われ始める新しいエネルギー」ではありません。製油所での脱硫処理、アンモニア(肥料)製造、メタノール製造、製鉄など、産業分野では100年以上にわたり大量の水素が使われてきました。
問題はそのつくり方です。現在の水素の大半は、天然ガスの水蒸気改質や石炭ガス化でつくられる、製造時に大量のCO2を排出する「グレー水素」です。水電解でつくるグリーン水素や、CO2を回収・貯留(CCS)するブルー水素といった低炭素水素は、世界需要の1%程度にとどまります。水素エネルギーへの世界的な投資は、この既存需要の置き換えと、発電・モビリティ・製鉄といった新規需要の開拓という二正面で進んでいるのです。
図1 世界の水素需要の内訳(年間約9,700万トン・IEA推計ベース)
IEA「Global Hydrogen Review」等の公表値をもとにした概算の整理。年により変動します。
この構造から読み取れるのは、水素サプライチェーンの当面の主戦場が「既存の産業需要の脱炭素化」にあるという事実です。すでに水素を大量消費している製油所や化学プラントは、需要の確実性という点で新規用途よりはるかに有利であり、各国の支援制度も既存需要地であるコンビナートを拠点化する設計になっています。
日本国内に限れば、現在の水素利用量は年間約200万トンと推計され、その大半は製油所やアンモニア・化学工場の中で自家生産・自家消費されています。市場で取引される流通水素は圧縮ガス・液化水素あわせて年間数万トン規模にすぎず、水素エネルギーの拡大とは、この小さな流通市場を発電・製鉄・モビリティの需要で数十倍に育てるプロセスにほかなりません。既存の産業ガス市場の延長ではなく、LNG導入期に匹敵する新しいエネルギーインフラの建設が必要になるという規模感を、まず押さえておく必要があります。
グリーン・ブルー・グレー 水素の「色」を整理する
水素そのものは無色の気体ですが、業界では製造方法に応じて「色」で呼び分ける慣行が定着しています。投資判断や規制対応の前提となる基礎知識であるため、ここで整理しておきます。
図2 製造方法による水素の分類
| 呼称 | 製造方法 | CO2排出 | 現状の位置づけ |
|---|---|---|---|
| グリーン水素 | 再生可能エネルギー電力による水電解 | 製造時ほぼゼロ | 本命だがコスト高。世界で大型化競争 |
| ブルー水素 | 天然ガス改質+CO2回収・貯留(CCS) | 大幅削減 | 米国・中東で大型案件。移行期の主力候補 |
| グレー水素 | 天然ガス・石炭の改質(CO2対策なし) | 大量排出 | 現在の供給の大半を占める |
| ターコイズ水素 | メタンの熱分解(固体炭素を併産) | 少ない | 実証段階。炭素材の販路が鍵 |
| ピンク水素 | 原子力発電の電力による水電解 | 製造時ほぼゼロ | 欧州・米国で制度上の扱いが論点に |
各国の制度では「色」ではなく炭素集約度(kg-CO2/kg-H2)で低炭素水素を定義する方向に移行しつつあります。
重要なのは、政策の世界では「色」による分類から、製造時のCO2排出量そのものを基準とする「炭素集約度」ベースの定義へ移行が進んでいる点です。日本の水素社会推進法も、EUの委任規則も、米国の45V税額控除も、いずれもkgあたりのCO2排出量で支援対象を線引きしています。水素ビジネスに参入する企業にとって、自社の水素がどの基準でどう認証されるかは、支援を受けられるかどうかを左右する死活問題になっています。
日本の水素社会推進法では、製造時の排出量がおおむね3.4kg-CO2e/kg-H2以下であることが「低炭素水素等」の要件とされました。EUのRFNBO(再エネ由来燃料)基準や英国・米国の基準はそれぞれ算定境界や閾値が異なるため、輸出入をまたぐプロジェクトでは複数基準への同時適合が求められます。炭素集約度の算定・検証・データ管理は、それ自体が認証機関やコンサルティング会社にとっての新しいサービス市場になりつつあります。
なぜ今、水素エネルギーなのか
カーボンニュートラルの実現手段としては、再生可能エネルギーによる電化が最も安価で確実な方法です。それでもなお水素エネルギーが不可欠とされるのは、「電化では脱炭素できない領域」が確実に存在するからです。高温の熱を必要とする製鉄・セメント・化学、長距離・重量物を運ぶ船舶・航空・大型トラック、そして化学反応の原料として水素そのものを使うアンモニア・メタノール製造などがその代表です。
第二の理由はエネルギー安全保障です。ロシアのウクライナ侵攻以降、欧州は天然ガス依存からの脱却を急いでおり、水素は輸入エネルギーの多様化手段として政策的な地位を高めました。日本にとっても、中東・豪州・北米など調達先を分散できる水素・アンモニアは、エネルギー自給率の低さを補完する選択肢と位置づけられています。
第三に、再生可能エネルギーの大量導入との相性があります。太陽光・風力の出力変動によって生じる余剰電力を水素に変換して貯蔵する「Power to Gas」は、電力系統の調整力と季節をまたぐ長期貯蔵を同時に提供します。蓄電池が数時間単位の調整を担うのに対し、水素は週・月・季節単位のエネルギー貯蔵を担える点で補完関係にあり、水素サプライチェーンは電力システム改革とも密接に結びついています。
この点は日本で既に現実の課題になっています。九州や東北では太陽光の発電が需要を上回る時間帯に出力制御(発電の抑制)が頻発しており、活用されずにいる再エネ電力を水素製造に振り向けるPower to Gas事業の実証が各地で始まりました。再エネの導入が進むほど余剰電力は増え、水素製造の「原料」が安く手に入るようになります。再生可能エネルギーと水素エネルギーは競合ではなく、互いの弱点を補い合う一体のシステムとして設計される段階に入っているのです。
日本の政策枠組み 水素基本戦略と水素社会推進法
日本は2017年に世界で初めて水素の国家戦略「水素基本戦略」を策定した水素先進国です。2023年6月の改定では、水素等(アンモニア等を含む)の導入量を現在の年間約200万トンから2030年に300万トン、2040年に1,200万トン、2050年に2,000万トンへ拡大する目標を掲げ、今後15年間で官民合わせて15兆円の投資を行う方針を明記しました。供給コストの目標は2030年に30円/Nm3(CIFコスト)、2050年に20円/Nm3です。
この戦略を制度として支えるのが、2024年5月に成立し同年10月に施行された「水素社会推進法」です。同法の柱は二つあります。一つは、低炭素水素等の供給価格と既存燃料の価格差を最長15年間にわたり補填する「価格差に着目した支援(値差支援)」。もう一つは、タンク・パイプラインなど共用インフラの整備費を補助する「拠点整備支援」です。2025年度には第1弾の支援対象案件が採択され、国内コンビナートを核とした大規模サプライチェーンが投資決定の段階に進みました。
- 値差支援: 低炭素水素と既存燃料の価格差を最長15年間補填し、需要家が割高な水素を使い続けられる事業環境を作る
- 拠点整備支援: 受入基地・貯蔵タンク・配管など共用インフラの整備費を支援し、コンビナート型の水素拠点を形成する
- GX経済移行債: 20兆円規模の先行投資支援の一部が水素・アンモニアに充当され、150兆円の官民GX投資を牽引する
これらの制度設計は、固定価格買取制度(FIT)が太陽光発電の市場を立ち上げたのと同じく、「制度が市場をつくる」フェーズに水素が入ったことを意味します。制度の詳細と課題はコスト構造と課題で詳しく報告します。
国の制度と並行して、自治体レベルの取り組みも厚みを増しています。福島県浪江町の水素タウン、山梨県のP2G事業、東京都の水素モビリティ支援、神戸市・川崎市の受入拠点整備など、地域の産業構造に合わせた「地産地消型」と「輸入拠点型」の二つのモデルが並走しています。水素ビジネスへの参入を検討する企業にとって、国の大型支援だけでなく、自治体の補助制度や実証フィールドは実績づくりの入口として有効に機能しています。
世界の勢力図 欧州・米国・中国・中東
世界に目を転じると、水素サプライチェーンをめぐる政策競争は「支援制度の設計競争」の様相を呈しています。EUはREPowerEU計画で2030年に域内製造1,000万トン・輸入1,000万トンという野心的目標を掲げ、欧州水素銀行のオークションで製造補助額を入札にかける市場的な支援を進めています。米国はインフレ抑制法(IRA)による最大3ドル/kgのクリーン水素生産税額控除(45V)と、70億ドルを投じる地域クリーン水素ハブ(H2Hubs)を推進してきましたが、政権交代後は制度の見直しも進み、事業環境の不確実性が高まっています。
中国は年間約3,000万トンを生産する世界最大の水素生産国であり、水電解装置(エレクトロライザー)の製造能力では世界の過半を握るとされます。内モンゴルや新疆で再エネと一体となった大型グリーン水素プロジェクトを進め、燃料電池は商用車を軸に普及を図るなど、「製造装置と応用製品の両面で市場を取る」戦略が鮮明です。中東ではサウジアラビアのNEOMで2.2GWの水電解によるグリーン水素・アンモニア製造が2026年の生産開始を目指しており、再エネ適地から消費地へ水素を運ぶ国際サプライチェーンの最初の大規模事例となる見込みです。各国戦略の詳細は主要企業と国家戦略で扱います。
「構想の時代」から「選別と実装の時代」へ
2020年前後の世界的な水素ブームでは、数百件規模のプロジェクト構想が発表されました。しかし2024年以降、金利上昇とコスト高、需要側の契約(オフテイク)不足を背景に、豪州のOrigin Energyの水素事業撤退やクイーンズランド州の大型案件断念など、構想段階のプロジェクトの中止・見直しが相次いでいます。これは業界の失速ではなく、「実現可能な案件への選別」が進んでいると読むべき現象です。
実際、最終投資決定(FID)に到達したプロジェクトの規模は着実に積み上がっており、支援制度が確定した日本・欧州、税額控除の恩恵を受ける米国のブルー水素、国家主導の中国・中東では建設が進んでいます。水素サプライチェーン産業に関わるビジネスユニットにとって重要なのは、発表ベースの構想ではなく、FID・着工・支援採択という「実装のシグナル」を基準に市場を読むことです。本サイトの各レポートは、この視点で製造・輸送・利活用の各段階を整理しています。まずは水素の製造からご覧ください。